これは1909年に刊行された「 Wie erlangt man Erkenntnisse der hoeheren Welten? 」を元にしたお話です。R・シュタイナーの四大著作の一つなので、ご存じの方も多いでしょう。
最初は、雑誌に連載されたもので、1907年に特別号で一冊にまとめられ、1909年に単行本として出版されました。その後、1918年までに何度か改訂版が出版されました。
日本では高橋巌氏が訳した「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」(ちくま学芸文庫)が良く知られていると思いますが、松浦賢氏や鈴木一博氏が訳したもの等、複数出版されています。
いつも書いていますが、これから書くことは私の独自の解釈であって原文を日本語に訳したものではありません。
今回は、「秘教修行者の夢に現れる変化」のお話です。
初めての方は、このシリーズの最初「いかにしてより高次の世界の認識を得るか その1」から読むことをお勧めします。
しつこいようですが、これから書くことは、上記の著作に書かれていたことに対する、私の独自の解釈であり、著者の真意をお伝えするものではありませんが、一緒に高次の世界を目指してみましょう。
秘教修行者が前回述べた発達段階に到達した、あるいは間もなく到達する兆候は、夢の中で起こる変化です。以前は、夢は混乱し、無秩序でした。今や、夢は規則的な様相を呈し始めます。夢の中のイメージは、日常生活の知覚のように、意味のある一貫性を持つようになります。夢の中に法則、原因、結果を見出すことができるようになります。そして、夢の内容も変化します。以前は日常生活の残響、周囲の変化した印象、あるいは自身の身体状態しか認識していなかったのに、今では、これまで知らなかった世界からのイメージが浮かび上がってくるのです。
しかし、当初は夢という側面が残ります。夢は、表現しようとする性格を伝えるという点で、覚醒時の想像とは異なるからです。この象徴的な意味は、夢を注意深く観察する者であれば見逃すことはありません。例えば、醜い動物を捕まえた夢を見て、手に不快な感触を覚えることがあります。目が覚めると、寝具の端を掴んでいることに気付きます。このように、この知覚は直接的に表現されるのではなく、象徴的な表現を通して現れます。あるいは、追っ手から逃げている夢を見て、恐怖を感じることもあります。目が覚めると、睡眠中に動機を感じていたことが明らかになります。消化できない食物で胃がいっぱいになると、恐ろしい夢のイメージが引き起こされます。眠っている人の周囲の出来事も、夢の中で象徴として映し出されます。時計の音が鳴ると、太鼓の音に合わせて行進する兵士の集団を思い起こさせます。椅子から倒れると、その落下が銃声に反映されるなど、夢のドラマが次々と展開されます。
こうした象徴的な性質は、エーテル体が発達し始めた人の規則的な夢の中にも現れます。しかし、それらはもはや、物理的環境や自身の感覚体の事実を単に反映するものではなくなります。これらの事柄に起源を持つ夢が規則的になるのと同様に、別の世界の事物や状況の表現である夢のイメージも規則的になります。ここで初めて、通常の覚醒意識では到達できない経験が生じます。真の神秘家が、このような夢の中で体験する事柄を、高次の世界からの伝達の根拠としているなどと、決して信じてはいけません。このような夢の経験は、より高次の発達の最初の段階としてのみ捉えられるべきなのです。
やがて、さらなる結果として、夢を見る修行者のイメージは、もはや以前のように理性的な思慮の支配から外れることなく、覚醒意識の知覚や感覚と同様に、理性によって制御され、適切に観察されるようになります。夢の意識と覚醒状態の間の違いは、ますます消えていきます。夢を見ている修行者は夢の中で完全に目覚めています。つまり、自分自身が夢の中での思考の主人であると感じています。
夢を見ている間、人は確かに肉体的な感覚で知覚する世界とは異なる世界にいます。しかし、精神器官が未発達なため、人は前述のような混乱した観念以外に、この世界についていかなる知覚も形成することができません。人間にとって、この世界は、せいぜいごく基本的な視覚の痕跡しか持たない存在にとっての感覚世界と同じような形でしか存在しません。
したがって、人間はこの世界で何も見ることができません。日常生活の残像や反射。人間が夢の中でこれらを見ることができるのは、その人の魂が昼間の知覚を夢の中のイメージとして処理しているからです。人間は、通常の意識的な日常生活に加えて、第二の無意識的な生活を送っているということです。人間が知覚し、考えることのすべては、この世界に刻み込まれています。これは、蓮華が開花して初めて見ることができます。
全ての人間の中には、蓮華の、ある種の希薄な前駆的物質が常に存在しています。覚醒意識の間は、印象が非常に弱いため、何も知覚できません。これは、昼間に星が見えないのと同じような理由です。星の光は太陽光の強力な影響にかき消されてしまいます。こうして、弱い精神的印象は、肉体感覚の強力な印象に覆い隠されてしまいます。睡眠中、外的感覚の門が閉ざされると、これらの印象は混乱した形で輝きだします。そして、夢を見る人は別の世界での体験に気付くようになります。しかし、既に述べたように、これらの体験は、当初は肉体感覚に縛られた想像力が霊界に刻み込んだものにすぎません。発達した蓮華だけが、肉体世界に属さない顕現をそこに記録することを可能にします。そして、発達したエーテル体を通して、別の世界に由来するこれらの印象に関する完全な知識が生じます。こうして、人間と新しい世界との相互作用が始まります。
そして今、人間は秘教的な修行の教えを通して、まず二つの目的を達成しなくてはなりません。まず、夢の中で観察したことを、覚醒時と同じように完全に認識出来なくてはなりません。これが達成されると、通常の覚醒時にも同じ観察をするように導かれます。精神的な印象に対するその人の注意は、これらの印象が物理的な印象に影響を与えないように調整されます。精神的印象が消え去ることなく、物理的印象と一緒に存在しているようになる必要があります。
修行者がこの能力を獲得すると、霊界に存在するものを物質界の原因として認識できるようになります。そして何よりも、この世界における自身の高次の自己を認識することができます。修行者の次の課題は、ある意味で、この高次の自己へと成長すること、つまり、それを真に自身の本質とみなし、それに従って行動することです。修行者は、自身の肉体、そしてかつて「私」と呼んでいたものが、高次の自己の道具に過ぎないという概念と鮮明な感覚を、次第に得るようになります。修行者は、感覚世界に限定された人が道具や乗り物に対して抱く感情のように、低次の自己に対する感情を育んでいきます。普通、「私は歩いていく」と言うのと同じように、「私は車で行く」と言っても、自分が乗っている自動車を「私」の一部とは考えないように、発達した人は「私はドアから部屋に入る」と言うとき、実際には「私は自分の身体を部屋の中に入れる」という概念を抱いています。しかし、その考えに囚われないようにしなくてはなりません。その人が一瞬たりとも物質世界における足場を失うことがなく、その結果として感覚世界からの疎外感が生じることもないことは明らかです。修行者が狂信者や夢想家にならないためには、高次の意識によって物質世界での生活を貧しくするのではなく、むしろ豊かにしなくてはなりません。ちょうど、ある距離を移動するのに足ではなく電車を使う人が豊かになるように。
もし修行者が高次の自己においてそのような生活を達したならば、より高い意識の獲得―心の領域における霊的知覚の力にアクセスする―方法を理解することができます。
この知覚力は、高次の霊的素材の要素であり、蓮華の揺れ動きや、完全に発達したエーテル体の他の経路を通して、光り輝く美しさを帯びて流れます。そこから、周囲の霊的世界へと放射され、霊的に可視化されます。それは、太陽光が物体を物理的に可視化するのと同じです。
この知覚力が心臓付近の霊的器官でどのように生成されるかは、修行自体を通じて徐々に理解できるようになります。
このようにして、霊的知覚器官をエーテル体を通して外界へ開き、それによって対象を照らすことができる者にとってのみ、霊的世界とその存在は明確に知覚可能となります。このことから、霊的世界における対象に対する完全な認識は、本人自身が霊的な光をその対象に向けるという条件の下でのみ生じることが明らかになります。実際、この知覚器官を生み出す「私」は、肉体の内部には存在せず、肉体の外部に存在しています。心臓付近の器官は、人がこの霊的な光の器官を外部から点火する場所に過ぎません。もし、心臓付近の器官ではなく、他の場所で点火するならば、それによってもたらされる霊的知覚は物質世界とは何のつながりも持たないでしょう。しかし、人はあらゆる高次の霊的事柄を物質世界に関連付け、それらを通して物質世界へと作用させるようにしなくてはなりません。心臓付近の器官はまさに、高次の「私」が感覚的自己を道具とし、操作する器官なのです。
今回はここまでです。
興味がありましたら、魂の夜明け(別館)の方もよろしくお願いします。