これは1910年に刊行された「Die Geheimwissenschaft im Umriss」を元にしたお話です。R・シュタイナーの四大著作の一つなので、ご存じの方も多いでしょう。
この著作も他の著作と同様、1925年までに何度か改訂版が出版されました。
日本では高橋巌氏が訳した「神秘学概論」(ちくま学芸文庫)が良く知られていると思いますが、西川隆範氏が訳したもの等、複数出版されています。
いつも書いていますが、これから書くことは私の独自の解釈であって原文を日本語に訳したものではありません。
今回は、「眠りと死 その3」のお話です。
初めての方は、このシリーズの最初「秘教科学概論 その1」から読むことをお勧めします。
しつこいようですが、これから書くことは、上記の著作に書かれていたことに対する、私の独自の解釈であり、著者の真意をお伝えするものではありませんが、一緒に神秘学の世界を探求してみましょう。
死もまた、人間の体の繋がりの変化によってのみ起こります。この点において超感覚的観察によって明らかになるものでさえ、顕在世界におけるその影響として見ることができます。そして、偏見のない判断力があれば、ここでも外界の生命の観察を通して超感覚的知識の認識内容が確認されます。しかしながら、これらの事実は、目に見えないものが目に見えるものの中に現れている様子が、睡眠の場合ほど明白ではありません。そのため、外的な生命現象の中に、超感覚的認識の説明を裏付ける証拠がどのように現れているのかを十分に理解し、その重要性を実感することは、より困難なのです。したがって、この書物でこれまで論じてきた他の多くの内容以上に、このような説明は単なる空想や幻想にすぎないと片付けられてしまう危険があります。なぜなら、感覚によって知覚出来る世界の中に、超感覚的世界への明確な示唆が含まれていることを認めようとしない人にとっては、そのように考える方が容易だからです。
睡眠への移行中、アストラル体はエーテル体及び肉体との繋がりから切り離されるだけで、エーテル体と肉体は繋がったままですが、死とともに肉体とエーテル体の分離が起こります。肉体は自らの力に任せられ、死体となって分解していきます。しかし、エーテル体にとって死は、(後に述べる例外的な状況を除き)生から死に至るまでの間には決して経験することの無かった状態をもたらします。今やエーテル体は、肉体の介在なしにアストラル体と一体となっているのです。というのも、死の直後にエーテル体とアストラル体が分離することはないからです。それらは、その存在が必要不可欠であることが容易に理解できるある力によって、しばらくの間、結びついたままの状態に保たれるのです。実際、もしこの力が存在しなければ、エーテル体は肉体から分離することはできません。
エーテル体は肉体と一体化しています。これは睡眠によって実証されます。睡眠中、アストラル体は人間のこの二つの部分を分離することができません。この力は死の時に発揮されます。エーテル体は肉体から解放され、エーテル体はアストラル体と繋がった状態になります。超感覚的な観察によると、死後、この繋がりは人によって異なることが示されています。繋がりの期間は数日続きます。
その後、アストラル体もエーテル体から分離し、独立して旅を続けます。二つの体が繋がっている間、人はアストラル体の経験を知覚出来る状態にあります。肉体が存在する限り、アストラル体が分離するとすぐに、衰弱した臓器を若返らせる作業が開始されます。肉体が分離すると、この作業は停止します。しかし、人が眠っている間にこの作業に費やされたエネルギーは死後も残り、他の目的に使用することができます。それは、アストラル体自身のプロセスを知覚可能にするために使われるのです。
人生の外面からだけの観察は、少なくともこう言えるかもしれません。「これらは全て、超感覚的な知覚力を持つものにとっては当たり前かもしれないが、そうでない者にとっては、その真実に近づく術はない。超感覚的な知識が、この通常の知覚レベルにおいてどんなものを提供してくれたとしても。」と。しかし、実際はそうではありません。通常の知覚からは隔絶されたこの領域において超感覚的認識が捉えるものは、ひとたび発見されさえすれば、通常の判断力によっても把握することが可能です。
通常の判断力に求められるのは、人生における諸々のつながりが外面に現れる様を、適切な光の下で眺めることだけなのです。思考、感情、意志は互いに、また人間が外界で経験する事柄と密接な関係にあります。それらの目に見える活動を、目に見えない活動の表れとして理解しない限り、それらを真に理解することはできません。目に見えるこの活動は、肉体的な人間生活におけるその推移が、非物質的な領域に関して超感覚的認識が明らかにした事柄の結果として捉えられたときに初めて、判断力にとって理解可能なものとなります。超感覚的認識がなければ、人はあたかも光のないくらい部屋にいるかのように、この活動と向き合うことになります。周囲の物理的な物体が光があって初めて見えるのと同様に、人間の魂の営みの過程もまた、超感覚的認識を通してのみ、その意味が明らかになるのです。
人間が肉体と繋がっている間、外界はイメージとして意識の中に入り込みます。肉体が脱落した後、肉体の感覚器官を通して外界との繋がりを失ったアストラル体が経験するものが、知覚可能になります。最初は、アストラル体は新しい経験を持ちません。エーテル体との繋がりが、アストラル体が新しい経験をすることを妨げているからです。しかし、アストラル体が確かに持っているのは、過去生の記憶です。この記憶は、今もなお存在するエーテル体によって、包括的で鮮明なイメージとして提示されます。
これが、肉体を脱落した後の人間にとっての最初の経験です。その人の誕生から死までの一連の人生は、画像となって展開します。人生の中での思い出は、生きている間は、肉体と繋がっている覚醒状態の時にのみ思い出されます。それは、この肉体が許す限りにおいてのみ思い出されます。しかし魂は、人生において心に刻まれたものを一切失うことはありません。もし肉体がそのための完璧な道具であるならば、人生のあらゆる瞬間においてそれが可能でなくてはなりません。しかし、魂の前に過去のすべてを思い起こすことは困難です。
死とともに、この障害はなくなります。エーテル体がその人と共にある限り、記憶はある程度の完全性を保ちます。しかし、エーテル体が肉体に宿っていた頃の形、つまり肉体に似た形を失うほど、記憶は衰えていきます。これはまた、一定期間後にアストラル体がエーテル体から分離する理由でもあります。アストラル体は、エーテル体の肉体に対応する形が持続する限り、エーテル体と一体であり続けることが出来ます。
誕生と死の間の人生において、エーテル体の分離は例外的な場合にのみ、そして短期間のみ発生します。例えば、人が手足に力を入れると、エーテル体の一部が肉体から分離することがあります。このような状態になった手足は「麻痺」した状態と呼ばれます。そして、その際に感じる奇妙な感覚は、エーテル体の分離に起因します。(もちろん、唯物論的な考え方では、目に見えるものの中にある目に見えないものを否定しこれらすべては圧力によって引き起こされた物理的な乱れからのみ生じていると主張することも出来ます。)このような場合、超感覚的観察によって、エーテル体の対応する部分が肉体からどのように移動するかを観察することができます。さて、人が全く異常な恐怖などを経験した場合、このようなエーテル体の分離は、体の大部分でごく短時間発生することがあります。これは、例えば溺死したり、登山中に転落したりして、突然死に瀕した時に起こります。このような体験をした人々の証言は、まさに真実に近いものであり、超感覚的観察によって確認することができます。彼らは、そのような瞬間に、人生全体が広大な記憶のように目の前を駆け巡ると言います。
ここでは多くの例を挙げることができますが、その中でも特に一つだけ取り上げたいと思います。それは、独特の考え方を持つある男性から聞いた話だからです。ここで述べられていることはすべて、単なる空想に過ぎない。超感覚的観察に少しでも踏み込もうとする人にとって、この科学を空想だと考える人々の主張をよく理解しておくことは非常に有益です。そのような人々の主張は、観察者を偏見によって非難することが非常に困難だからです。(秘教科学者は、自分たちの研究を無意味だと考える人々からのみ、多くのことを学ぶことができるかもしれません。)たとえこの点で報いを受けられなかったとしても、落胆することはありません。もちろん、超感覚的観察の結果そのものには、そのような主張は必要としません。そのような主張は、その真実性を証明する説明のために使うのではなく、明確にするために発言しているからです。
著名な犯罪人類学者であり、自然科学の他の多くの分野で重要な研究者であるMoritz Benedict(モーリッツ・ベネディクト)は、回想録の中で、自分自身が経験した事件について語っています。ある時、風呂で溺れそうになった時、彼は自分の人生のすべてが一つのイメージとして目の前に現れたのです。
たとえ他の人々が同様の体験を違った形で描写し、たとえそれが過去の出来事とほとんど似ていないように見えたとしても、それはこれまで述べてきたことと矛盾するものではありません。なぜなら、肉体から完全に分離した未知の状態で生じるイメージは、時に人生との関連性において容易に説明できないことがあるからです。しかし、適切な観察によって、この関連性は常に認識されるでしょう。また、例えば、かつて溺れかけたことがあるのに、描写された体験をしていないとしても、それは異論ではありません。エーテル体が肉体から真に分離し、エーテル体がアストラル体と繋がったままの時に、このような体験が起こり得ると単純に考えればいいのです。もしショックによってエーテル体とアストラル体の弛緩も引き起こされるのであれば、夢を見ない睡眠時と同様に、完全な無意識状態にあるため、この体験は起こりません。
今回はここまでです。
興味がありましたら、魂の夜明け(別館)の方もよろしくお願いします。