これは1910年に刊行された「Die Geheimwissenschaft im Umriss」を元にしたお話です。R・シュタイナーの四大著作の一つなので、ご存じの方も多いでしょう。
この著作も他の著作と同様、1925年までに何度か改訂版が出版されました。
日本では高橋巌氏が訳した「神秘学概論」(ちくま学芸文庫)が良く知られていると思いますが、西川隆範氏が訳したもの等、複数出版されています。
いつも書いていますが、これから書くことは私の独自の解釈であって原文を日本語に訳したものではありません。
今回は、「眠りと死 その6」のお話です。
初めての方は、このシリーズの最初「秘教科学概論 その1」から読むことをお勧めします。
しつこいようですが、これから書くことは、上記の著作に書かれていたことに対する、私の独自の解釈であり、著者の真意をお伝えするものではありませんが、一緒に神秘学の世界を探求してみましょう。
秘教科学は、霊界で起こる出来事を描写する場合は、イメージしか与えることができません。しかし、これらのイメージは、肉体の目には見えない出来事を超感覚的意識が観察した際に、真の現実として現れるものでなくてはなりません。描写されるべきものは、感覚世界との比較を通して鮮明に表現されます。なぜなら、それは本質的に完全に霊的なものであるにもかかわらず、感覚世界とある程度の類似性を持っているからです。特定の物体が目に作用すると色が現れるのと同様に、「霊界」において、ある存在が自我に作用すると、色彩に似た経験が自我に現れます。しかし、この経験は、物質界に生きている間の人生において、自己の知覚のみが内的に作用するのと同じ方法でもたらされます。それは、あたかも外部から光が降り注ぐのではなく、別の存在が自己に直接作用し、その効果を色のイメージとして想像させるかのようです。このように、自我の霊的環境におけるすべての存在は、色彩を放つ世界において自らを表現します。霊界におけるこれらの色彩経験は、その起源の形式が異なるため、当然のことながら、感覚的色彩の経験とは異なる性質を持ちます。人間が感覚世界から受け取る他の印象についても、同様のことが言えます。
この感覚世界の印象に最も似ているのは、霊界の音です。人がこの世界に浸れば浸るほど、それは感覚的現実における、音とその調和に匹敵する、活気に満ちた内在的な生命となって現れてきます。
今や音は、器官に作用する外部の何かとしてではなく、むしろ自我から世界へと発散する力として認識されます。人は音を、感覚世界で自分が話したり歌ったりするのと同じように感じます。霊界においてのみ、人間は自分から発せられるこれらの音が、同時に他の存在の表現であり、彼らを通して世界に流れ込んでいることを知ります。
「霊界」には、さらに高次の顕現が見られます。これは、音が「言霊」となるときに起こります。すると、他の霊的存在の言葉が自我を通して流れるだけでなく、その存在自体の内なるものが、自我と共有するのです。そして、感覚世界におけるあらゆる一体感に必ず伴う分離なしに、「言霊」が自我に浸透すると、二つの存在が互いの内に生きることができます。こうして、自我は死後も真に他の霊的存在と交わりながら存在するのです。
超感覚的意識に先行する3つの領域があります。これらの領域は、感覚界における物質世界の三つの部分に例えることができます。第一の領域は、ある意味で霊界の「大地」、第二の領域は「海と川の領域」、そして第三の領域は「大気の領域」です。
地上で物理的な形を取り、肉体の器官で知覚できるものは、「霊界」の第一の領域において、その霊的な本質において知覚されます。例えば、水晶の形を形成する力はそこで知覚されます。しかし、そこで現れるものは、感覚界に現れるものとは正反対です。後者の世界において岩石の塊で満たされた空間は、霊的な目には一種の空洞のように見えますが、この空間の周囲には、石の形を形成する力が見られます。感覚界における石の色は、霊界においてはその反対色の経験として現れます。つまり、赤い石は霊界から見ると緑がかって見え、緑の石は赤味がかって見える、といった具合です。他の石も同様です。石や土塊などが感覚世界の「大地」を構成するように、これらの要素が霊界の「大地」を構成します。
感覚世界における生命のすべては、霊界の海域なのです。感覚の目には、生命は植物、動物、そして人間に現れています。霊的眼には、生命は海や川のように、流れる存在なのです。霊界には川が縦横に流れています。さらに、体内の血液の循環と比較すると分かりやすいでしょう。感覚界の海や川は不規則に分布しているように見えますが、霊界を流れる生命の分布は、血液の循環のように一定の規則性を示しています。この「流れる生命」は、同時に霊的な音の共鳴として知覚されます。
第三の領域は「大気の領域」です。感覚界で感じ取れるものは、霊界においても、地上の空気のように遍在し、全てを包み込むように存在します。流れる感覚の海のようですが、苦しみや痛み、喜びや歓喜が、感覚界の大気における風や嵐のように、この領域を流れていきます。地上で繰り広げられる戦いを考えてみましょう。そこには、肉眼で見える人間の姿が互いに向き合うだけでなく、感情が感情に、情熱が情熱に抗い、戦場には人間の姿と同じくらい痛みが満ちています。そこに生きる全てのもの――情熱、痛み、勝利の喜び――は、感覚的に知覚出来る効果として現れるだけで存在するのではなく、霊界における大気の過程として、霊的な感覚の意識に現れます。このような出来事は、物質界における雷雨のようです。そして、これらの出来事の認識は、現実世界で言葉を聞くことに例えることができます。したがって、空気が地上の存在を包み込み吹き抜けていくのと同じように、「言霊」も霊界の存在と過程を包み込みます。
そして霊界では、さらなる知覚が可能になります。それはまた、物質世界の温かさと光に例えられるものでもあります。霊界において、温かさのように地上のあらゆる物や存在に浸透しているもの、それが思考の世界そのものです。そこでのみ、思考は生きた独立した実体として存在しています。
人間が感覚世界で思考として認識するものは、霊界に生きる思考存在として知られているものの影のようなものです。人の中に存在する思考が、その人から引き上げられ、活動的な存在として、独自の内なる生命を与えられたと想像してみてください。そうすれば、霊界の第四の領域を満たすもののぼんやりとしたイメージが浮かぶと思います。人間が誕生から死までの間に、物質界において思考として知覚するものは、思考の世界が肉体という器官を通して形作られ、現れたものに過ぎません。しかし、物質界において意味を持つ、そのような思考という形で人が抱くものはすべて、この領域に由来します。そのような思考を考える際には、偉大な発明家や独創的な人々の発想を考えるだけでなく、あらゆる人が外界から得た「インスピレーション」だけでなく、それを通して自ら外界を変容させている様子を見ることができます。外界に起源を持つ感情や情熱に関しては、これらの感情などは霊界の第三領域に位置づけられます。しかし、人間の魂の中に生き、人間が創造者となり、周囲の環境に変革をもたらし、豊かに作用するものはすべて、霊界の第四領域において、その真の本質的な形で明らかにされます。
第五領域に存在するものは、物理的な光と比較することができます。それらは自らの本来の姿で現れる叡智です。太陽が物理的な存在に光を注ぐように、知恵を周囲にそそぐ存在は、この領域に属します。この叡智によって照らされるものは、霊界におけるその真の意味や重要性を示しています。それはまるで物理的な存在が光を浴びることで色を見せるようです。
さらに高い霊界の領域もあります。それらの描写は本書の後ろの部分で述べます。
この世界では、死後に自我は感覚的な人生から持ち込んだ果実とともに沈められます。この果実は、浄化の期間の終了時に脱落しなかったアストラル体の一部と依然として結合しています。死後も、欲望と願望を抱きながら肉体生活に向けられた部分だけが脱落します。自我が感覚世界から取り込んだものとともに霊界に浸ることは、種子を熟成した土に埋め込むことに例えることができます。種子が周囲から物質と力を吸収して新しい植物へと成長するのと同じように、成長と展開こそが、霊界に浸された自我の本質なのです。
ある器官が知覚するものの中に、その器官自体を形成する力も宿っています。目は光を知覚しますが、光がなければ目は存在しません。生涯を暗闇の中で過ごす存在は、自ら見るための器官を発達させません。このように、肉体を持つ人間全体は、四肢を通して知覚されるものの隠された力から創造されるのです。
肉体は物理世界の力によって、エーテル体は生命世界の力によって、そしてアストラル体はアストラル界から形成されます。自我が霊界へと運ばれると、まさに物理的な知覚からは隠された力に遭遇します。霊界の第一領域で目に見えるようになるのは、常に人間を取り囲み、肉体も形成してきた霊的力の顕現だけです。死後、人間はこれらの形成力そのものの真っただ中におり、それらの力は、以前は隠されていた形で、今や人間に姿を現します。
同様に、第二領域では、人間はエーテル体を構成する力の真っただ中におり、第三領域では、アストラル体を形成する力がその人に向かって流れ込んできます。霊界の高次の領域もまた、人間が誕生から死までの間の人生において構築される力が流れ込むのを受け取ることを可能にします。
これらの霊界の存在は、人間が前世から持ち込んだもの、つまり種となるものと協働します。そして、この相互作用を通して、人は霊的存在として再構築されます。
睡眠中、肉体とエーテル体は維持されますが、アストラル体と自我はこれら二つの体の外側にありながらも、依然として繋がっています。このような状態で、霊界から受け取るものは、覚醒中に消耗した力を回復させる役割しか果たしません。しかし、肉体とエーテル体が脱ぎ捨てられ、浄化期間が過ぎると、欲望を通して依然として肉体と繋がっているアストラル体の部分も捨て去られ、霊界から自我へと流れ込むものはすべて、単に回復させるだけではなく、再創造するものとなります。そして、本書の後半で論じる一定の器官が経過すると、自我の周囲にアストラル体が形成され、自我は再び、誕生と死の間に人間に本来備わっているエーテル体と肉体の中に宿ることができるようになります。人間は再生を遂げ、前世の果実を組み込んだ新たな地上の存在として現れることができます。アストラル体が再構築されるまで、人間は自らの再構築の立会人となるのです。
霊界の力は外部器官を通してではなく、自己意識における自我のように内側から現れるため、感覚がまだ外部の知覚世界に向けられていない限り、人はこの啓示を知覚することができます。しかし、アストラル体が再構築された瞬間から、この感覚は外側に向けられるため、アストラル体は再び外側のエーテル体と肉体を要求するようになります。こうして人は、内なる自己の啓示から目を背けてしまうのです。
したがって、人は無意識状態に陥る中間状態となり、意識は後になって初めて回復します。肉体的な知覚に必要な器官が発達すると、それらは再び物質界に現れます。この間、内なる知覚によって照らされた意識が消滅すると、新しいエーテル体はアストラル体と結合し始め、人間は再び肉体に入ることができます。エーテル体と肉体に秘められた創造力、すなわち生命霊と霊的人間を生み出した自我だけが、この二つの結合に意識的に関与することができます。人間がこの段階に達しない限り、自分よりも発達が進んでいる存在がこの結合を導かなくてはなりません。アストラル体はそのような存在によって両親のところへと導かれ、対応するエーテル体と肉体を授けられます。
エーテル体の統合が起こる前に、肉体に戻る人にとって非常に重要なことが起こります。前世で、彼は破壊的な力を作り出し、それが死後の復活の際に現れました。前回述べた例のように、40歳の時に、怒りに駆られて誰かに苦痛を与えた人を想像してみてください。死後、相手のこの苦痛は、彼自身の自我の発達を阻害する力として立ちはだかります。前世でのそのような出来事はすべて同じです。
肉体に戻ると、これらの発達の障害が再び自我の前に立ちはだかります。死の始まりに際し、人間の前に一種の記憶絵画が立ちはだかったように、今度はこれからの人生の姿を垣間見ることができます。人間は再びそのような絵画を見て、発展を続けるために取り除かなくてはならないすべての障害が示されます。そしてその人がそうして見るものは、人が新しい人生に持ち込むべき力の出発点となるのです。その人が他者に与えた苦しみのイメージは、再び人生に入ったときに自我を支える力となります。この力が人に、この他者に与えた苦しみを償わせようとします。このように、前世は新しい人生に決定的な影響を及ぼします。この新しい人生の行為は、ある意味では前世の行為によって引き起こされます。前世と後の人生の間のこの法則的なつながりは、「運命の法則」と呼ばれてきました。そして、東洋の叡智から借用した「カルマ」という言葉でそれを説明してきました。」
今回はここまでです。
興味がありましたら、魂の夜明け(別館)の方もよろしくお願いします。