これは1910年に刊行された「Die Geheimwissenschaft im Umriss」を元にしたお話です。R・シュタイナーの四大著作の一つなので、ご存じの方も多いでしょう。
この著作も他の著作と同様、1925年までに何度か改訂版が出版されました。
日本では高橋巌氏が訳した「神秘学概論」(ちくま学芸文庫)が良く知られていると思いますが、西川隆範氏が訳したもの等、複数出版されています。
いつも書いていますが、これから書くことは私の独自の解釈であって原文を日本語に訳したものではありません。
今回は、「眠りと死 その7」のお話です。
初めての方は、このシリーズの最初「秘教科学概論 その1」から読むことをお勧めします。
しつこいようですが、これから書くことは、上記の著作に書かれていたことに対する、私の独自の解釈であり、著者の真意をお伝えするものではありませんが、一緒に神秘学の世界を探求してみましょう。
死から新たな誕生までの間に人が担うべき活動は、新たな肉体の構築だけではありません。この構築が行われている間、人は物質世界の外で生きています。しかし、この世界はこの間も発展を続けます。比較的短い期間で、地球はその様相を変えます。現在ドイツが占めている地域は、数千年前はどのような様相を呈していたのでしょうか?人が新たな存在として地球に現れるとき、地球は前世と全く同じ様相を呈することは決してありません。その人が地球を離れていた間に、想像し得るあらゆるものが変化しています。この地球の様相の変化には、隠れた力も働いています。それらの力は、人が死後に自らを見出すのと同じ世界から作用するのです。そして、その人自身もこの地球の変革に参加しなくてはありません。
人間は、生命霊や霊的人間の創造を通して、霊的なものとその物理的な表現との繋がりを明確に認識するまでは、高次の存在の導きのもとでのみそうすることができるのです。しかし、人間は地上の状態の変容に確かに参加しています。
死から新たな誕生までの期間、人間は自らの内に生じたものに合わせて地球の状態を変化させると言えます。ある時点における地球の一角と、その後長い年月を経て完全に変化した状態にある地球を再び観察すると、この変化をもたらした力は、死者たちの働きです。このように、彼らは死と新たな誕生の間、大地と繋がっています。
超感覚的意識は、あらゆる物理的存在の中に、隠された霊性の顕現を見出します。物理的観察においては、太陽の光や気候の変化などが大地の変化に影響を与えます。超感覚的観察においては、太陽から植物に降り注ぐ光線の中に、死者の力が働いています。この観察は、人間の魂が植物の周りに漂い、土壌をどのように変化させるかなどを意識にもたらします。死後、人はただ自分自身に向き合うのではなく、地上での新しい存在への準備だけに留まるのではありません。誕生と死の間の人生において肉体的な創造を求められるのと同じように、死後、外の世界で霊的な創造をするように求められるのです。
しかし、霊界から物質界の状況に影響を与えるのは、人の生活だけではありません。逆に、物質界における活動も霊界に影響を与えます。この関係において何が起こるのかを例で説明しましょう。母と子の間には愛の絆があります。この愛は、感覚界の力に根ざした、二人の間の引力から生まれます。しかし、それは時とともに変化します。感覚的な絆は次第に霊的な絆へと変化します。そして、この霊的な絆は物質界だけではなく、霊界にも織り込まれます。他の人間関係においても同様です。霊的な存在が物質界で紡ぎだしたものは、霊界にも残ります。
生前深く結びついた友人は、霊界でも共にいます。そして肉体を脱ぎ捨てた後、彼らは肉体の人生よりもさらに深い交わりの中にいます。霊として、彼らは互いに支え合っているからです。これは、霊的存在が内なる自我を通して他者に啓示を与えるという前述の方法と同じです。そして、二人の間に織りなされた絆は、彼らを新たな人生でも再び結びつけます。したがって、言葉の真の意味で、死後に人々は再び出会うのです。
人間は誕生から死、そして新たな誕生へと、一度経験した出来事を繰り返します。人は地上生活で得た果実が霊界で成熟した時、常にこの世に戻ってきます。しかし、これは始まりも終わりもない繰り返しではなく、むしろ、人間はかつて他の存在形態から、ここで説明されたような形態へと移行し、未来にはさらに別の形態へと移るのです。これらの移行段階の展望は、次に超感覚的意識の観点から、人間と関連して宇宙の発展が描かれる時に示されることになります。
死と新たな誕生の間の過程は、霊的物質として誕生と死の間にある顕在的存在の根底にあるものよりも、外的な感覚的観察からさらに隠されています。感覚的観察は、この隠された世界の影響を、それが物理的存在として顕在化するところでのみ知覚することができます。感覚的観察にとっての問題は、誕生を通して地上存在に入る人が、以前の死と生の間の過程に関する超感覚的知識が記述するものを、自ら持ち込んでいるかどうかです。
もし誰かが、生物の痕跡が全くないカタツムリの殻を見つけたとしても、その人は、その殻が生物の活動によって作られたことを認め、単なる物理的な力によって形成されたとは信じないでしょう。同様に、生きている人間を観察し、この人生に由来し得ないものを見つけた人は、それが秘教科学が記述するものから来ていると、それがそうでなければ説明できない事柄に光を当てるならば、合理的に認めることができます。
このように、感覚的観察もまた、秘教科学の観点から説明することができます。目に見える影響を通して目に見えない原因を理解することができます。そして、人生を完全な公平さで観察する人にとって、これは新たな観察を重ねるごとに、正しい在り方であることがますます明らかになります。大切なのは、人生における影響を観察するための正しい視点を見つけることです。例えば、超感覚的知識が浄化期の過程として描写するものの影響はどこにあるのか?この浄化期の後、人が純粋に霊的な領域で経験するはずのものの影響は、どのように現れるのか?
この分野においては、人生について真剣かつ深遠に考察するのに十分な謎が浮かび上がってきます。ある人は、苦難と悲惨の中に生まれ、わずかな才能しか授からなかった人を見ると、生来与えられたこれらの事実が、彼らをみじめな人生へと運命づけているかのように思えます。別の人は、生まれた瞬間から、愛情深い手と心によって育まれ、大切にされ、輝かしい才能が開花し、実り豊かで充実した人生を送る素質を持っています。
こうした事情に対して、二つの相反する見解が生まれます。一つは、感覚が知覚するもの、そしてそれらの感覚に縛られた知性が理解できるものに固執します。この見解は、ある人が幸運に生まれ、別の人が不幸に生まれるという事実を何ら問題視しません。「偶然」という言葉は用いないかもしれませんが、そのような出来事を引き起こす法則的なつながりは考慮しません。また、素質や才能に関しても、この種の考え方は、両親、祖父母、その他の先祖から「受け継いだ」ものに固執します。祖先からの遺伝的系譜とは別に、個人が生まれる前に経験した霊的過程、そしてそれを通して素質や才能が発達した過程に原因を求めることを拒否します。
別の見解は、このような見方に満足せず、何かがある場所や環境で起こるとき、その理由を顕在世界の事象を前提としなくてもよいはずだと、考えます。多くの場合、人はその原因をまだ研究していないかもしれないが、原因は存在している。高山植物は低地には生育しない。その性質の中に、高山地帯と繋がる何かがある。同様に、特定の環境に生まれる原因は、人間の中にも必ず存在します。物理的な世界だけに存在する原因だけでは不十分です。より深く考える人にとっては、誰かが他の人を殴ったという事実を、その人の感情ではなく、手の物理的な仕組みによって説明しているように感じます。この考え方は、素質や才能に関して、単なる「遺伝」に基づく説明にも同様に満足できないことを示します。
しかし、ある人はこう言うかもしれません。「特定の素質が家庭内で受け継がれる場合がある。バッハ家では、2世紀半の間に音楽の才能が家族の中で受け継がれてきた。ベルヌーイ家からは8人の数学者が出て、彼らの中には子供の頃全く異なる職業を目指していた者もいた。しかし『遺伝した』才能は常に彼らを家業へと導いた。さらに、ある人の祖先を詳細に調べることで、その人物の才能が先祖のどこかに現れており、それが単に受け継がれた才能の総和として現れることを示すことも出来る。」と指摘します。
前述の後者の性質の持ち主であれば、そんな事実を決して無視することはないでしょう。しかし、感覚世界の過程のみに基づいて説明しようとする人と同じではありません。前者は、遺伝的素質が自然に組み合わさって完全な人格を形成することは不可能であり、時計の金属部品が自然に一つに組み合わさることはない、と指摘します。そして、もし両親の相互作用が遺伝の組み合わせを引き起こし得る、つまりそれがまるで時計職人の代わりになるのだという反論があるならば、「子供の個性ごとに与えられる全く新しいものを偏見なく観察すると、これは親から来るものではあり得ません、それは単純に親たちの中には存在しないからです。」と答えるでしょう。
この分野では、思考が不明確だと大きな混乱が生じる可能性があります。最悪なのは、前者の見解を持つ人が後者の見解を持つ人を「ある事実」に基づく何かの反対者だと決めつけることです。しかし、後者の見解を持つ人は、これらの事実の真実性や価値を否定することなど考えるべきではありません。
例えば、彼らは確かに、特定の知的性質、いや、ある知的志向が家系内で「遺伝」され、子孫の中で特定の性質が集約され組み合わさることで、重要な人格が形成されることを認識しています。最も偉大な人物が血統の最初に現れることは稀で、むしろ末裔に現れる事を、彼らは認めています。しかし、感覚的・事実的なことだけを求める人々とは全く異なる考えを抱かざるを得ないのです。
ですので、こう答えることができます。確かに、人は祖先の特徴を示します。なぜなら、誕生を通して肉体的存在に入り込む霊的・精神的な存在は、遺伝によって与えられたものからその身体を獲得するからです。しかし、これは、ある存在が、それが浸されてきた媒体の特性を帯びているという事に過ぎません。それは確かに奇妙な、些細な比較ですが、公平な観察者であれば、人間が祖先の特徴を示しているという事実は、その存在の個人的な資質の起源について何も証明するものではない、という主張の妥当性を否定しないでしょう。それは、水に落ちて濡れているという事実が、その人の内面について何も証明しないのと同じです。さらに、最も偉大な人が血統の最後の方に現れる場合、それはその人が人格の完全な発達に必要な肉体を発達させるために、その血縁を求めたことを示しているのです。しかし、それは個人的なものの「遺伝」を証明するものではないし、むしろ健全な理論からすると逆のことを示しています。個人的な才能が遺伝するなら、それは血縁関係の最初に現れて、そこから子孫に伝わるはずだからです。しかし、才能は最後に現れるので、むしろそれが遺伝しないことの証拠になっているのです。
今回はここまでです。
興味がありましたら、魂の夜明け(別館)の方もよろしくお願いします。