これは1909年に刊行された「 Wie erlangt man Erkenntnisse der hoeheren Welten? 」を元にしたお話です。R・シュタイナーの四大著作の一つなので、ご存じの方も多いでしょう。
最初は、雑誌に連載されたもので、1907年に特別号で一冊にまとめられ、1909年に単行本として出版されました。その後、1918年までに何度か改訂版が出版されました。
日本では高橋巌氏が訳した「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」(ちくま学芸文庫)が良く知られていると思いますが、松浦賢氏や鈴木一博氏が訳したもの等、複数出版されています。
いつも書いていますが、これから書くことは私の独自の解釈であって原文を日本語に訳したものではありません。
今回は、「あとがき」ですので、このシリーズの最後となります。
初めての方は、このシリーズの最初「いかにしてより高次の世界の認識を得るか その1」から読むことをお勧めします。
しつこいようですが、これから書くことは、上記の著作に書かれていたことに対する、私の独自の解釈であり、著者の真意をお伝えするものではありませんが、一緒に高次の世界を目指してみましょう。
この書籍で概説されている超感覚的知識への道は、霊的体験へと導くものであり、それを志す者がそれについて妄想や誤解を避けることは極めて重要です。そして、ここで何が問題となっているのかについて、人々は容易に欺かれてしまいます。最も深刻な誤りの一つは、真の霊的科学で論じられている霊的体験のすべてが、迷信、幻視、霊媒、その他人間の作為による様々な倒錯と同列に扱われるほど歪められている場合に生じます。こうした歪曲は、人々が真の知識の追求を欠いたまま、超感覚的世界への道を求め、その際に、本書で概説されている道を歩もうとする人たちと混同されたときに起こります。本書で述べられている道において人間の魂が経験するものは、完全に純粋に霊的・精神的な経験の領域においてのみ起こります。このような経験が可能なのは、外的に知覚されるもの、あるいは内的に欲望、感覚、あるいは意志されるもの自体に由来しないものを超越した時、肉体的な活動から自由で独立した状態にあるからです。
そのような思考の存在を全く信じない人々がいます。彼らは、人間は知覚や肉体的な内面生活から生じないものは何も考えられません、そしてすべての思考は知覚や内面経験の影に過ぎないと信じています。そういう人々は、まさにそう主張しているのです。それは単に、純粋で自己完結的な思考の生活を魂で体験する能力を未だ獲得していないからです。しかし、そのような生活を経験した者にとって、魂の生活に活動があるところではどこでも、その活動が魂の他の機能に浸透する限りにおいて、その人は何らかの活動に従事しており、その実現において身体が役割を果たしていることが明らかです。通常の精神生活において、思考はほとんどの場合、知覚、感情、意志といった魂の他の機能と絡み合っています。これらの他の機能は身体によってもたらされますが、思考がそれらに働きかける時、身体が関与しない何かが、その人の内側で起こります。これを否定する者は、知的活動を常に他の営みと絡み合っているものとして観察することから生じる錯覚を克服することは出来ません。しかし、内的経験を通して、人は内なる力を呼び覚まし、内的生活の知的側面を他のすべてから切り離して経験することが出来ます。人は、思考の中にのみ存在する広大な精神生活の中から、何かを抽出することができます。思考はそれ自体の中に存在し、そこから知覚や身体に条件付けられた内的生活が寄与するあらゆるものが排除されます。そのような純粋な思考は、それ自体を通して、霊的なもの、超感覚的なものとして自らを明らかにします。そして、あらゆる知覚、あらゆる記憶、そしてあらゆる内的生命を排除することで、そのような思考と一体化する魂は、思考そのものと超感覚的領域にあることを自覚し、意識の領域外で自らを体験します。この全容を理解している人にとっては、もはや「身体の外にある超感覚的な要素の中に魂の経験があるのだろうか?」という疑問は生じません。彼にとって、それは経験から知っていることを否定することになります。彼にとって唯一の疑問は、人々がそのような確かな感覚を持つことを何が妨げているのか、という事です。そしてこの問いに対して、彼は、問題の事実とは、人がまずその啓示を受け取れる精神状態にならなければ、経験できない事実であるという答えにたどり着きます。人々は、自分とは無関係な何かが自らに啓示されるために、自分自身が純粋に精神的レベルで何かをしなくてはならないと期待されると、最初は疑念を抱きます。彼らがそう信じるのは、啓示を受けるために自ら準備しなくてはならないからであり、啓示の内容を自分で創造するからです。彼らは、人間が何もせず、完全に受動的でいるような経験を欲します。さらに、そのような人々が、ある状況を科学的に理解するための最も単純な要件さえも知らない場合、彼らは魂の内容、あるいは魂の顕現(魂が感覚知覚や意志行動に見られる意識活動のレベルよりも低く抑制されている状態)の中に、感覚的本質の客観的な啓示を見ます。魂のそのような内容とは、幻視体験や霊媒による啓示です。しかし、こうした啓示を通して明らかになるのは感覚の世界ではなく、感覚以下の世界です。人間の意識的な覚醒生活は、この領域のみで進行するわけではありません。むしろ、この生活に対する意識的な部分は、主に肉体と精神の境界で展開されます。
物理的な外界、すなわち知覚的生活で感覚器官に起こることは、身体外の過程が身体に侵入するのと同じぐらい、身体内の過程も身体外に侵入するものなのです。そして意志的生活は、人間を宇宙的存在の中に位置づけることに基づいており、人間の意志によって起こることは、同時に世界の出来事の一部となるのです。身体の境界に沿って進行するこの精神的経験において、人間は自身の身体組織に大きく依存しています。しかし、知的活動はこの経験において、感覚知覚と意志という形で現れ、肉体から独立していきます。
幻視体験や霊媒的現象において、人間は肉体に完全に依存しています。彼らは、知覚と意志において肉体から独立している原因となっているものを魂の生活から排除します。こうして、魂の内容と魂の産物は、肉体生活の単なる顕現となります。幻視体験や霊媒的現象は、これらの体験や現象において、人間の魂が通常の知覚や意志よりも肉体から独立していないという事実の結果なのです。本書で意味する超感覚的体験においては、魂の経験の発達は、幻視体験や霊媒的現象とは正反対の方向に進行します。魂は次第に自らを、知覚や意志よりも、肉体からより独立させます。純粋な思考の経験によって得られる独立性によって、魂のより広範な活動が達成されます。
ここで言及されている魂の超感覚的活動にとって、純粋思考の経験を完全に理解することは極めて重要です。なぜなら、根本的に、人はすでにある種の超感覚的な霊的活動を経験しています。ただ、その活動を通して超自然的なものをまだ知覚していないだけなのです。
人は超感覚的領域において純粋思考とともに生きます。しかし、超感覚的な方法でのみ経験しています。超感覚的な他の何かをまだ経験していません。そして、超感覚的な経験は、純粋思考との結合において、既に達成されている魂の経験の延長でなくてはなりません。だからこそ、この結合を正しく経験できることは非常に重要なのです。なぜなら、この結合を理解することから光が輝き、超感覚的な知識の本質への真の洞察をもたらすからです。
魂の経験が思考において顕現する意識の明晰さの下に沈んでしまうと、超自然の世界についての本当の知識は誤ってしまいます。その人は身体機能に囚われるでしょう。その人が経験し、生み出すものは、その人を通しての超感覚的なものの啓示ではなく、身体における身体的啓示です。
感覚に支配されない世界の領域、魂が経験とともに超自然の領域に入ると、それらの経験は、精神における経験のようには容易に言語表現を見つけることができなくなるような性質のものとなります。感覚世界の領域で超感覚的体験を記述する際には、ある意味で、言語表現と表現されている実際の状況との間の距離が、物理的体験よりも大きいことにしばしば気付かなくてはなりません。描写的なイメージのような表現の中には、それが指し示す対象を微妙にしか示さないものがあることを理解する必要があります。そのため本書では、「本来、精神科学のすべての規則と教えは、象徴的な記号で与えられている。」と述べられています。また、「特定の文字体系」について言及している部分もあります。通常の物理的言語を表記するために音声記号とその組み合わせを学ぶのと同じように、そのような文字を学びたいと思う人は少なからずいるかもしれません。しかし、言っておかなくてはならないことがあります。精神科学の学派や協会の中には、超感覚的状況を表現するための象徴的な記号を持つものが過去にもあり、現在も存在しています。そして、これらの象徴の意味を授かった者は誰でも、それによって、自らの魂的経験を関連する超感覚的現実へと向ける手段を得ることができます。しかし、超感覚的経験にとって本質的なのは、むしろ、そのような超感覚的経験の過程において、魂は超感覚的なものを観想し、自らの経験を通してこの文字の啓示を得ることができます。超感覚的なものが魂に語りかけ、魂はそれを絵のような記号へと翻訳し、意識的に完全に理解しなくてはなりません。
本書で伝えられていることは、あらゆる魂が理解できると言えるでしょう。そして、魂が与えられた指示に従って自ら決定できる理解の過程において、ここに記された結果が生じるでしょう。本書のような書物は、著者と読者が交わす対話のようにとらえるべきです。秘教を学ぶ者が個人指導を必要とすると言われる時、それは本書自体がそのような個人指導であると言う意味だと理解してください。かつては、このような個人指導を口伝による秘教教育に留めておくべき理由がありました。しかし現在、私たちは人類の発展段階において、霊的科学的知識を以前よりもはるかに広く普及させなくてはならない段階に達しています。それは、以前よりもはるかに広く、すべての人にアクセスできるものでなくてはなりません。本書は、以前の口頭指導にとって代わるものです。本書に書かれていることに加えて、個人的な指導が絶対に必要だという考えは、条件付きでしか正しくありません。確かに、個人的なサポートは彼らにとって大きな意味を持つかもしれません。しかし、本書には載っていない本質的なことがあると考えるのは誤りです。注意深く見れば、本書の中にすべて網羅されています。
本書に書かれていることは、まるで人格の完全な変革のための指示書のように見えます。しかし、正しく読めば、そのようなことは全く含まれていないことがわかります。人間が、人生において超感覚的世界と対峙したいと願う瞬間に、どのような内的精神状態にあるべきかという事以外になにも述べていません。人はこの精神状態を、自分自身の内に第二の存在として発達させ、もう一つの健全な存在も同様に育成します。修行者は、二つの存在を完全に意識的に区別し、互いに正しく交流する方法を知っています。修行者は、人生への興味や技能を失ったり、一日中霊的研究者である、というようなことはありません。しかしながら、超感覚的世界における経験は、人間の全存在に光を放つでしょう。しかし、それは人生から気をそらすようなものではなく、むしろこの人生を有能で実り豊かなものにするものなのです。それにもかかわらず、本書のような記述を提供せざるを得なかったのは、超感覚的なものに向けられたあらゆる認知過程が人間の全存在を占めるという事実に由来します。したがって、人がそのような認知過程に身を捧げる瞬間、その人は全存在においてそうでなくてはなりません。色覚認知過程が神経の延長線を持つ眼の個々の組織の活動を占めるように、超感覚的認知過程もまた人間の全存在の活動を占めます。修行者は、「完全に眼」あるいは「完全に耳」になります。このように超感覚的認知過程について語るとき、それは人間の変容を語っているように思われます。そのため、人々は、普通の人間は良くない、全く異なる何かにならなければいけないと考えています。
「霊界参入」に関して、さらに付け加えたいことがあります。
多少の修正を加えれば、この本の他のセクションにも当てはまります。
誰かがこう尋ねるかもしれません。「なぜ超自然体験がこのように現実的表現で描写されているのか。これらの体験は、このような感覚的な表現なしに、実際の体験で説明できないのですか?」
これに対して、次のように答えなくてはなりません。超感覚的現実の経験が生じるためには、人間が超感覚的領域において自らが超感覚的であることを知ることが不可欠です。ここで示されている「蓮の花」と「エーテル体」の描写においてその実態が完璧に明らかにされている、自らの超感覚的本質を考慮に入れなければ、人間は超感覚的領域において、あたかも感覚的世界に浸りきって周囲の事物や過程が明らかにされているだけで、自らの肉体については何も知らないかのように、自らを経験することになってしまいます。
彼が「アストラル体」と「エーテル体」の中に自分の超感覚的形態として見ているものは、彼が自分の存在を通してそれを知覚する時、肉体が感覚世界において自分自身を認識するように、超感覚的領域で自分自身を意識的に認識させるものなのです。
今回はここまでです。
興味がありましたら、魂の夜明け(別館)の方もよろしくお願いします。