これは1910年に刊行された「Die Geheimwissenschaft im Umriss」を元にしたお話です。R・シュタイナーの四大著作の一つなので、ご存じの方も多いでしょう。
この著作も他の著作と同様、1925年までに何度か改訂版が出版されました。

日本では高橋巌氏が訳した「神秘学概論」(ちくま学芸文庫)が良く知られていると思いますが、西川隆範氏が訳したもの等、複数出版されています。

いつも書いていますが、これから書くことは私の独自の解釈であって原文を日本語に訳したものではありません。

今回は、「宇宙の進化と人間 その6」のお話の続きです。
初めての方は、このシリーズの最初「秘教科学概論 その1」から読むことをお勧めします。
しつこいようですが、これから書くことは、上記の著作に書かれていたことに対する、私の独自の解釈であり、著者の真意をお伝えするものではありませんが、一緒に神秘学の世界を探求してみましょう。

以前も示唆したように、進化していく存在たちは、自分たちの発達段階を通じて、一般の宇宙的物質から自分たちの天体を分離していきます。その存在はまるで、物質が構造化されるための力を放出しているようです。
太陽と月は、それぞれの存在に適した適切な居場所を作るために必要な形でお互いから分かれました。しかし、物質とその力を精神によって定めることは、さらに進んだ段階まで及んでいます。存在たち自身もまた、天体の特定の運動、すなわちお互いの周りでの回転などを引き起こす条件となっています。
これにより、これらの天体は互いの相対的な位置が変化します。そして、ある天体が他の天体に対して相対的な位置、つまり向きを変えると、対応する存在が互いに及ぼす影響も変化します。これが太陽と月で起こったことです。
太陽の周りを回る月の動きによって、人間は太陽の影響を受けることもあります。またある時は太陽から遠ざかり、より自分自身に依存するようになります。この動きは、前述のように、ある月の生命体の「堕落」と、それによってもたらされた闘争の均衡の結果です。それは、堕落によって生み出された精神的な力の均衡の物理的表現に過ぎません。
一方の物体がもう一方の物体の周りを動くという事実は、前述のように天体に宿る生命体の意識状態の変化をもたらします。月は、太陽に近づいたり遠ざかったりしながら、その生命を交互に回していると言えます。太陽時と惑星時があり、後者においては、月の生命体は太陽から離れた側で発達します。しかし、月に関しては、天体の動きに加えてもう一つの要素があります。超感覚的な意識でこの時代を回顧すると、月の存在たちが非常に規則的な周期で自分の世界の周りを移動している様子を見ることが出来ます。彼らは特定の時期に、太陽の影響を受けるための場所へ移動し、別の時期には、その影響を受けずに、いわば自分自身を振り返ることのできる場所へ移動するのです。
これらのプロセスについて描くべき全体像を完成させるには、この期間中に「生命の子供」が人間の段階に到達することにも留意する必要があります。
月面でも、人類は土星に起源を持つ感覚を使って、外部の物体を独自に知覚することはまだできません。しかし、これらの感覚は月のステージでは道具となるのです。「生命の子供」の感覚は、知覚するためにこれらの感覚を用います。人間の肉体に属するこれらの感覚は、こうして「生命の子供」と相互関係を結びます。後者はこれらの感覚を用いるだけでなく、それらを完成させます。
さて、既に述べたように、太陽との関係の変化は、人間の生活環境にも変化をもたらします。人間が太陽の影響を受ける時、人間は自分自身よりも太陽の生命とその顕現に身を委ねるようになります。そのような時、人間は太陽の存在に表される宇宙の広大さと栄光を感じ取ります。いわば、それを吸収するのです。太陽に宿る高貴な存在は月にも影響を与え、月は人間に影響を与えます。しかし、この影響は人間全体に及ぶのではなく、主に、自身の意識的なイメージの影響を逃れた部分に及ぶのです。特に、肉体とエーテル体は一定の大きさと形態を獲得しますが、意識の顕現は衰えていきます。
人間が太陽から遠ざかると、自らの本性に囚われてしまいます。特にアストラル体において、内なる活動が始まります。反対に、外形は魅力を失い、不完全な形になります。
つまり、月紀の間には、2つの別個の、明確に区別された、交互に現れる意識状態があります。太陽の影響を受けている鈍い状態と、生命がより自立している時の明るい状態です。
最初の状態は確かに鈍感ではありますが、同時により無私でもあります。人はそこで外界、太陽に映る宇宙へより深く没頭して生きています。これは意識状態の変化であり、現代人の睡眠と覚醒の切り替わり、そして一方では誕生と死の間の人生、他方では死と新たな誕生の間のより精神的な状態に例えることが出来ます。月で目覚めることは、太陽の時間が徐々に終わるときに、現代人が毎朝目覚めることと生まれることの中間のように例えられます。そして同様に、太陽の時間が近づくにつれて意識が徐々に鈍くなることは、眠りに入ることと死ぬ事の中間状態のように似ています。なぜなら、現代の人間に特有のような生と死の意識は、古い月にはまだ存在していなかったからです。人間は一種の太陽的な生活の中で、その生活の喜びを楽しんでいました。その時代、人間は自己の生から離れて、より精神的に生きていたのです。
そのような時代に人間が経験したことを、正確に描写することは難しく、あくまで大まかで比較的な描写しかできません。まるで宇宙の力が自分の中に流れ込み、全身を駆け巡っているかのように感じていました。宇宙の調和に酔いしれながら共に生きているような感覚だったのです。その時、人間のアストラル体は物質的な身体から解放されているかのようでした。そして、エーテル体の一部もまた肉体から引き抜かれたようでした。
そして、アストラル体とエーテル体からなるこの存在は、精妙で不思議な楽器のようで、その弦には宇宙の神秘が響き渡っていました。そして、宇宙の調和に従って、意識がわずかな影響力しか及ぼさない人間の部分の四肢が形成されました。なぜなら、これらの調和の中で、太陽の存在たちが働いていたからです。こうして、人間のこの部分は霊的な世界の音色によって形作られました。そしてこの過程において、太陽時間の意識の軽い状態とより鈍い状態との変わり目は、現在の人間が目覚めている状態と完全に夢のない眠りとの間で感じるほど厳しいものではありませんでした。とはいえ、イメージとしての意識は現在の覚醒時の意識ほど明るくはありませんでしたが、その代わりに、別の意識もまた現在の夢のない眠りのように鈍くはなかったのです。
こうして人間は、肉体と、肉体に繋がったままのエーテル体の部分における世界の調和の相互作用について、ある種の、しかし控えめな概念を持っていました。
太陽がある意味で人間に降り注がない時期には、意識の中で調和のイメージが置き換えられました。特に意識の直接の作用下にある肉体やエーテル体の部位が生き生きとしました。一方で、太陽からの形成力がもはや働かない人間の他の部分は、一種の硬化や乾燥の過程を経ました。そして再び太陽の期間になると、古い身体は崩れ、人間から離れていき、まるで墓から新たに形成された内側の人間が現れるようでした。そこには、生命過程の刷新が起こっていました。太陽存在とその調和の働きによって、新しく生まれた身体は再び完全な形に整えられ、前に述べた過程が繰り返されるのです。
そして人間はこの再生をまるで新しい衣をまとうような感覚で知覚しました。その人の本質的核は、実際の誕生や死を経験したわけではありません。その人は単に、外界に身を捧げていた霊的・音的意識から、より内向きになった意識へと移行しただけなのです。その人は皮膚を脱ぎ捨てました。古い肉体は使えなくなり、脱ぎ捨てられ、再生したのです。これによって上で生殖のように述べたものも、想像の世界に近いことも示されました。
人間は、肉体とエーテル体の特定の部分に関して、同類を生み出しました。しかし親から完全に異なる子供が生まれるわけではなく、前者の本質の核が後者に受け継がれます。新しい存在を生み出すのではなく、自らが新しい形で現れるのです。こうして月紀の人間は意識の変化を経験します。
太陽の時期が近づくと、人間の心象はますます薄れ、至福の没入感に包まれます。静かな内面で宇宙のハーモニーが響くのです。
この時期の終わりに近づくと、アストラル体の中のイメージが活性化し始め、より多くの感覚や感情を感じるようになります。人間は、太陽の時期に沈んでいた至福と静けさから目覚めるような経験をします。
しかし、ここでさらなる重要な体験が起こります。意識のイメージが新たに明るくなると、人間はまるで自分が宇宙から降りてきた存在に包まれているかのように感じます。そして、この存在を自分に属するもの、自分の本性を補完するものとして感じます。それを自分の存在を与えるもの、自分の「自我」として感じるのです。この存在は「生命の子供」の一人です。人間はその存在に対してこう感じます「私はこれの中で生きていた、太陽の時期に宇宙の栄光に没入していた時も。その時はただ見えなかっただけだ。しかし今は見えるようになった。」と。そして、この「生命の子供」からは、太陽のない時代に人間が自分の身体に及ぼすその働きへの力が発せられます。そして再び太陽の時代が近づくとき、人間はまるで自分自身が「生命の子供」と一つになるかのように感じます。たとえその存在をその時見なくても、人は深くその存在と結びついていると感じるのです。
「生命の子供」との関係は、全ての人間がそれぞれに「生命の子供」を持つのではなく、むしろ集団全体がそのような存在を自分たちに属するものとして認識するというものでした。このように、月紀では人々はそのような集団に分かれて生活し、それぞれの集団は「生命の子供」の中に共通の「集団としての自我」を認識していました。集団間の差異は、特にエーテル体がそれぞれの集団で異なる形態をとっていたという事実に現れていました。肉体はエーテル体に基づいて形成されるため、後者の差異は前者にも表れ、個々の人間集団はそれぞれ異なる人類種として現れました。
「生命の子供」が自分たちに属する集団を見下ろすと、ある意味で、個々の人間の中に自分自身が複製されているのを見ました。そしてその中で自分たちの「自我」を感じました。彼らは人間に自分自身を映し出していたのです。
これは当時の人間の感覚器官の役割でもありました。これらの感覚器官はまだ対象の認識を媒介するものではありませんでしたが、それらは「生命の子供」の本質を映していました。この映像を通じて、「生命の子供」が感じたものが彼らの「自我意識」を与えたのです。そして人間のアストラル体に映し出されたことで引き起こされるもの、それこそが鈍くぼんやりした月紀の意識のイメージなのです。
人間のこの「生命の子供」との相互作用によって行われた活動は、身体の中で神経系の基礎に影響を与えました。神経は、人間の身体の内部に向かう感覚器官の延長のようなものとして現れます。
以上の事から、「人格の精霊」、「火の精霊」、「生命の子供」という3種類の精霊が、月紀の人間にどのように作用するかが明らかです。月紀の発達における主要な時期である中期を考慮すると、「人格の精霊」は人間のアストラル体に独立性と明確な個性を吹き込むと言えます。いわば太陽が人間を照らしていない時期に、人間は内省し、自己形成することが可能になるのは、まさにこのためです。
「火の精霊」はエーテル体において活動し、人間の独立した発達をエーテル体に刻み込みます。人間は、これらの存在を通して、肉体が再生するたびに、自分が同じ存在であると感じます。このように、「火の精霊」はエーテル体に一種の記憶を与えます。
「生命の子供」は、肉体が独立したアストラル体の表現となるように働きかけます。彼らは、この肉体がアストラル体の相貌的イメージとなることを可能にします。対照的に、高次の霊的存在、すなわち「形態の精霊」と「運動の精霊」は、太陽時代において独立したアストラル体から独立して発達する肉体とエーテル体に介入します。彼らの介入は、前述のように太陽から行われます。
こうした事実の影響を受けて、人間は成熟し、土星紀の進化の後半において霊的人間の萌芽が、そして太陽紀において生命霊の萌芽が発達したのと同様に、自らの中に「霊的自我」の萌芽を徐々に発達させていきます。これは月紀におけるあらゆる状況を変化させます。人間は次々に変容と刷新を経る中で、ますます高貴で洗練されてきましたが、同時に力も獲得してきました。その結果、イメージ意識は太陽の時代を通じてますます保持されるようになりました。こうして、イメージ意識は肉体とエーテル体の形成にも影響を及ぼすようになりました。それまではすべて太陽存在の働きによって行われていたものです。
月紀で、人間とそれに結びつく霊的存在によって行われたことは、以前に太陽とその高次存在によって行われていたことにますます近づきました。その結果、これらの太陽存在は自身の発展のためにその力を使えるようになりました。こうして月は、しばらくして再び太陽と結合される準備が整ったのです。
霊的観察によると、これらの過程は次のように現れます。「堕落した月の存在」は徐々に太陽の存在に打ち負かされ、今や太陽の存在に服従することで、自らの行動が太陽の存在の行動に統合されるように、彼らに従属しなくてはなりません。しかし、これは、月の周期がますます短くなり、太陽の周期がますます長くなる長い時代を経て初めて起こりました。今、太陽と月が一つの宇宙的実体となるという新たな展開が起こっています。この状態において、人間の肉体は完全にエーテル化されています。
しかし、肉体がエーテル体化したと言われるからといって、そのような状態の肉体について語れなくなると考えるべきではありません。土星紀、太陽紀、月紀に肉体として形成されたものは、依然として存在し続けます。ここで重要なのは、肉体が外的に物理的な形で現れている場合にのみ、それを認識するのではなく、エーテル体、あるいはアストラル体の形態を外的に示す形で存在する可能性があるということです。外見と内的法則性を区別する必要があります。
物理的なものはエーテル化やアストラル化することは出来ますが、その内側では物理的な法則性を保持しています。これは、人間の物理的な身体が月の上で一定の完成度に達した場合のことです。それはエーテル状になりますが、そうした身体を観察できる超感覚的意識が向けられると、その身体はエーテルの法則ではなく物理的な法則で認識されます。つまり、物理的なものがエーテルの中に取り込まれて、まるで母胎の中で休み、そこの中で養われるような状態になるのです。その後、物理的な形態で再び現れますが、より高い段階で現れます。
もし月紀の人間が粗い物理的な身体を保持していたなら、月は決して太陽と一体化できません。エーテル的形態を受け入れることで、物理的な身体はエーテル体と類似したものになり、その結果、太陽時代の間に月の発達の過程で引き出されなくてはならなかったエーテル体やアストラル体の部分ともより密接に融合できるのです。太陽と月の分離期間中、二重存在のように見えた人間は、再び一体的な存在になります。物理的なものはより精神的になり、その分精神的なものも物理的なものとより結びつきます。
それが今やその直接の領域に入ってきた太陽の精霊たちは、これまでとは全く異なる方法で、外側から月に向かって、この統合された人間に作用することが出来ます。人間は今、より魂的・精神的な環境に置かれています。その結果、重要な影響をもたらす「叡智の精霊」がやってくることが出来ます。彼らは人間に知恵を刻み込み、知恵で魂を満たします。そのおかげで、人間はある意味で独立した魂となります。
そして、この存在たちの影響に加えて、「運動の精霊」の影響も加わります。彼らは主にアストラル体に働きかけ、その影響下でアストラル体は魂のような活動と叡智に満ちたエーテル体を発達させます。この叡智に満ちたエーテル体は、以前、現代人の知性魂として説明したものの最初の萌芽であり、「運動の精霊」によって刺激されたアストラル体は、感覚魂の萌芽です。そして、これらすべてが人間としての高められた自立状態において起こるため、これらの知性魂と感覚魂の萌芽は「霊的自我」の表現として現れます。
これに対して、発展のこの段階で「霊的自我」が知性魂や感覚魂とは別の特別なものだと誤解してはいけません。後者は単に「霊的自我」の表現であり、それは高次の統一と調和を意味しています。
特に重要なのは、「叡智の精霊」が前述のようにこの時代に介入しているという事実です。彼らは人間だけでなく、月で発達した他の領域にも介入します。太陽と月の再統合により、これらの低次の領域は太陽圏に引き込まれます。それらの領域に存在していた物質的なものはすべてエーテル化されます。こうして、鉱物的植物や動物的植物、そして人間も太陽圏に見られるようになりました。しかし、これらの他の存在は独自の法則を保持しています。そのため、彼らは周囲の環境の中で異質な存在のように感じられます。それらの性質は、周囲の環境と漠然と一致するだけです。しかし、エーテル化されているため、「叡智の精霊」の影響は彼らにも及ぶ可能性があります。月から太陽にやって来た全てのものは、今や「叡智の精霊」の力が浸透しています。したがって、この発達期に太陽と月の合体によって出現したものは、「叡智の宇宙」と呼ぶことが出来ます。
しばらくの休息の後、地球システムがこの「叡智の宇宙」の産物として現れる時、月紀の種子から芽生えた地球に新たに生きるすべての存在は、叡智に満ちています。これは、人間が周囲の物事を思索的に観察する時、自らの存在の本質に潜む叡智を探求できる理由を明らかにします。
植物の葉、動物や人間の骨、そして脳と心臓の驚くべき構造に叡智が宿っていることを、人は称賛することが出来ます。もし人間が物事を理解するために知恵を必要とし、その知恵を物事から引き出すなら、それは知恵が物事の中に存在することを示しています。なぜなら、人間がどんなに努力しても、知恵ある観念を通して物事を理解しようとしても、それが最初からそこに備わっていなければ、物事から知恵を引き出すことは出来ないからです。知恵を通して物事を掴もうとする者が、その物事が最初から知恵を受け取っていないと信じているのであれば、そこに入れられていない水をコップから汲み出せると信じるのと同じことです。地球は、この書物の後で示されるように、再生した「古い月」なのです。そして、地球が賢明な存在として現れるのは、記述されている時代に「叡智の精霊」がその力をもって浸透していたからです。
月の状況に関するこの記述が、ある一時的な発展形態を捉えているに過ぎないことは、理解できるでしょう。事実が明らかになるにつれて、特定の事柄を記録し、記述するためにそれらを取り上げる必要があったのです。しかしながら、この種の記述は事実の抜粋を提供するに過ぎず、したがって、前述の記述には、発展を理解するための概念の枠組みが欠けていると思われるかもしれません。しかし、ここでの記述は意図的に正確さを欠いた表現をしていると述べておきます。なぜなら、ここでの目的は、推測的な概念や構想を提示することではなく、むしろこれらの事実に向けられた超感覚的な見方が実際に精神的な眼にどのように現れるかを伝えることにあるからです。
そして、月紀の発展というのは、地球の知覚が示すようなはっきりとした輪郭で捉えられるものではありません。月の時代には、非常に変化しやすく、移り変わる印象、揺れ動く、動的なイメージ、そしてその移行に関わることが多いのです。さらに発展は非常に長い長い時間の経過を通じて考察されるべきなのです。
人の存在に植え付けられたアストラル体が、肉体を「生命の子供」が人間の段階に到達できるようにするほどに発達した時点で、月の時代の本質的なピークが達成されます。この時、人間は自身や内面のために、この時代の道で与えることのできるすべてを達成しているのです。したがって、次に続く月紀の発展の後半は、むしろ衰退のようなものと呼べるかもしれません。しかし、人間の周囲や人間自身に関して、この時期には非常に重要なことが起こっていることも分かります。
太陽にある月の身体に知恵が植え付けられるのです。この衰退の間に、知性魂と感覚魂の萌芽が生まれることはすでに述べました。しかし、これらの魂や意識魂の発展、すなわち「自我」、自由な自己意識の誕生は、地球時代になって初めて起こります。
月紀の段階では、知性魂や感覚魂は、人間自身がそれらを通して現れるというよりも、「生命の子供」という人間に属する存在のための道具のように現れるのです。もしこの月紀で人間が持つ感覚を表現するとしたら、こう言えるでしょう。「私の中で、そして私を通して『生命の子供』が生きている。それは私を通して月の環境を見、私の中でこの環境の物事や存在について考えている。」と。
月紀の人間は「生命の子供」に圧倒され、まるでこの高次の存在の道具であるかのように感じます。そして、太陽と月が分かれる時、太陽から離れることでより独立した感覚を覚えます。しかし同時に、太陽の時代にはイメージ意識に隠れていた自身に属する「自我」が、その時目に見えるかのように感じるのです。
それは月紀の人間にとって、意識状態の変化と呼べるものであり、その時に人間はこう感じました。「私の自我は、太陽の時期には私とともにより高い領域、崇高な存在たちのもとへと飛んでいき、太陽が沈むと私とともにより低い世界へと降りていく。」
実際の月の発達は、準備が先行していました。土星紀と太陽紀の進化がある方法で繰り返し行われました。現在、太陽と月の再統合の後、潮の満ち引きのように二つの時代を区分することが出来ます。その期間中には、ある程度まで物理的な凝縮さえも起こります。つまり、太陽・月の像の精神的・魂的な状態が物理的な状態と交互に現れるのです。そのような物理的時代には、人間や低位の存在たちが、後に地球時代においてより自立的な形態になるものを、硬直した独立していない姿で模しているかのように現れます。
したがって、月紀の発展には二つの準備段階の時代があり、衰退期にも二つの別の時代があります。こうした時代は「循環」と呼ぶことが出来ます。二つの準備段階の後で、そして衰退期の前、すなわち月の分離の時期には、三つの時代を区別することも出来ます。中間の時代は「生命の子供」の人間化の時期です。その前には、すべての関係がこの主要な出来事に向けて集まる時代があります。そしてその後には、新しい創造の中で生きて形を作ることと呼べる別の時代が続きます。こうして中央の月紀の発展も三つの時代に分かれ、二つの準備段階と二つの衰退期を合わせて、七つの周期があります。したがって、月紀の発展全体は七つの循環で進むということが出来ます。
これらの循環の間には休止期間があります。例えば、太陽の存在たちは徐々に月での働きから退いていきます。外から見ると休息期間のように見える時期が始まりますが、月自体ではまだ活発な自律的な活動が続いています。こうして、一つの存在の性質の活動期は他の存在の休止期に重なることが多いのです。
こうしたことを考慮すると、周期ごとの力の高まりと低下について話すことが出来ます。実際、七つの月紀の周期の中にも同様の区分が見られます。ですから、月紀の全発展を大きな周期、もしくは惑星周期と呼び、その中の七つの区分を小さな周期と呼び、さらにその中の区分をより小さな周期と呼ぶことが出来ます。この七回の中の七区分は、太陽紀の発展時にもすでに見られ、また土星紀にも見られます。しかし、区分の境界は太陽紀でも、さらに土星紀ではより曖昧であることに注意する必要があります。これらの境界は、発展が地球紀に向かうにつれてますます明確になっていきます。

今回はここまでです。

興味がありましたら、魂の夜明け(別館)の方もよろしくお願いします。