これは1909年に刊行された「 Wie erlangt man Erkenntnisse der hoeheren Welten? 」を元にしたお話です。R・シュタイナーの四大著作の一つなので、ご存じの方も多いでしょう。
最初は、雑誌に連載されたもので、1907年に特別号で一冊にまとめられ、1909年に単行本として出版されました。その後、1918年までに何度か改訂版が出版されました。
日本では高橋巌氏が訳した「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」(ちくま学芸文庫)が良く知られていると思いますが、松浦賢氏や鈴木一博氏が訳したもの等、複数出版されています。
いつも書いていますが、これから書くことは私の独自の解釈であって原文を日本語に訳したものではありません。
今回は、前回までの「霊的修行入門の諸段階」の「3.参入」のお話の続きです。
初めての方は、このシリーズの最初「いかにしてより高次の世界の認識を得るか その1」から読むことをお勧めします。
しつこいようですが、これから書くことは、上記の著作に書かれていたことに対する、私の独自の解釈であり、著者の真意をお伝えするものではありませんが、一緒に高次の世界を目指してみましょう。
「空気の試練」に合格した者は、「高次の知識の神殿」に入ることが許されます。これについて、これ以上語れることは、ほんのわずかなヒントにしか過ぎません。今や成し遂げなくてはならないことは、「参入者は秘密の教えを裏切らないという誓いを立てなくてはならない。」と表現されます。しかし、「誓い」や「裏切る」という言葉は適切ではなく、誤解を招く恐れがあります。これは通常の意味での「誓い」ではありません。この段階では、秘密の教義をどの経験に適用し、人類のためにどのように役立てるかを学ぶということです。そして、人は世界を真に理解し始めます。それは高次の真理を「隠す」ことではなく、それらを表現するための正しい方法、適切な手順を学ぶことです。人が「沈黙を守る」ことを学ぶのは全く別のことです。人はこの素晴らしい資質を、これまで語ってきた多くの事柄、特に語り方に関して獲得します。経験された秘密を可能な限り、世界のために役立てない人は、劣った参入者と言われます。
この分野では、受け手側の理解不足以外にコミュニケーションの障害となるものはありません。しかし、高次の神秘は気軽に議論するには適していません。
この段階まで発達した者に対して、「禁じられている」ということはありません。誰かがそのような「誓い」を課すことはありません。全てはその人自身の責任なのです。参入者が学ぶのは、あらゆる状況において何をすべきかを、完全に自分自身で見つけること事です。そして、その「誓い」は、その人がそのような責任を負うことが出来るほど成熟したことを意味します。
参入者がこの段階に達すると、象徴的に「忘却の薬」と呼ばれるものを受け取ります。その人は、低次の記憶に常に悩まされることなく行動するための秘訣を伝授されます。これは参入者にとって不可欠なものです。なぜなら、その人は常に目の前の現在に完全な信頼を置かなくてはならないからです。人生のあらゆる瞬間に私たちを取り囲む記憶のベールを払いのけることが出来なくてはなりません。もしその人が今日遭遇する何かを昨日の経験に基づいて判断するならば、その人は多くの誤りを犯すことになります。もちろん、これは人生で得た経験を否定するという意味ではありません。参入者は、あらゆる新しい経験を内側から判断し、過去のすべての曇りなしに自分自身に影響を与える能力を待たなくてはなりません。参入者は、あらゆる物や存在が私に全く新しい啓示をもたらす可能性に常に備えていなくてはなりません。経験は新しく見るものを理解するため、あるいは見るものに基づいて新しいものを判断するために役立たせるべきではありません。この点において、参入者は非常に特殊な能力を獲得します。これにより秘儀参入していない者には隠されていた多くのことが明かされます。参入者に与えられる二つ目の薬は「記憶の薬」です。これにより、参入者は常に高次の秘密を心に留めておく能力を得ることが出来ます。通常の記憶ではこれには不十分なのです。人は高次の真理と完全に一体にならなくてはなりません。一般の人がどのように食べたり飲んだりするのかをただ知るのではなく、積極的に実践してください。実践、習慣、性向‐‐これらは、あるがままの姿にならなくてはなりません。通常の意味でそれらについて考える必要はありません。それらは、人体を通して現れ、まるで生命体の生命機能のように、その人の中に流れ込むのです。こうして、それらは霊的な意味で、自然が肉体的に創造したものに、ますます近づいていくのです。
今回はここまでです。
興味がありましたら、魂の夜明け(別館)の方もよろしくお願いします。