これは1910年に刊行された「Die Geheimwissenschaft im Umriss」を元にしたお話です。R・シュタイナーの四大著作の一つなので、ご存じの方も多いでしょう。
この著作も他の著作と同様、1925年までに何度か改訂版が出版されました。
日本では高橋巌氏が訳した「神秘学概論」(ちくま学芸文庫)が良く知られていると思いますが、西川隆範氏が訳したもの等、複数出版されています。
いつも書いていますが、これから書くことは私の独自の解釈であって原文を日本語に訳したものではありません。
今回は、「宇宙の進化と人間 その4」のお話です。
初めての方は、このシリーズの最初「秘教科学概論 その1」から読むことをお勧めします。
しつこいようですが、これから書くことは、上記の著作に書かれていたことに対する、私の独自の解釈であり、著者の真意をお伝えするものではありませんが、一緒に神秘学の世界を探求してみましょう。
土星時代の進化の状況を鮮明かつ現実的に理解したいのであれば、この時期には、現在地球に属す鉱物界、植物界、動物界に分類される物や生物は、実質的に存在していなかったという事実を考慮しなくてはなりません。これら3つの界に属する物や生物は、後の発展段階で形成されました。今日物理的に確認できる地球上の存在のうち、当時は人間だけが存在しており、しかも先に描写されたような物理的な肉体だけでした。しかし現在の地球には、鉱物界・動物界・植物界・人間界の存在だけでなく、物理的な身体を持たない他の存在もいます。このような存在は、土星時代の発展期にも存在していました。そして彼らの働きが、後の人間の発展に影響を与えたのです。
もし精神的な知覚器官を、最初と終わりではなく、この中期の発展段階に向けると、そこには主に「熱」だけで成り立つ状態が現れます。気体も液体も、ましてや固体の要素も見つかりません。これらの状態は、後の物質化になって初めて現れます。
仮に現在の感覚器官を持つ人間がこの土星の状態を観察者として近づいたとしましょう。その時、その人が認識できる感覚は熱感覚でしかありません。もしそのような存在がこの土星に近づいた場合、その存在がいる空間部分が周囲の空間環境とは異なる熱状態であることだけを感じ取るでしょう。しかしその空間部分は均一に暖かいわけではなく、様々な形で暖かい部分と冷たい部分が交互に現れます。ある線に沿っては輝く熱を感じることもあります。その線がまっすぐに引かれているわけではなく、熱の差によって不規則な形が作られます。目の前には、内部で区分けされ、変化する状態で現れる存在があり、それは熱だけで成り立っているという感じです。
現代人にとって、熱のみからなるものを想像するのは難しいでしょう。なぜなら、人々は熱をそれ自体としてではなく、温かい、あるいは冷たい気体、液体あるいは固体としてのみ認識することに慣れているからです。特に、現代物理学の概念を受け入れている人にとって、上記のように「熱」について語ることは無意味に思えるでしょう。そのような人はこう言うかもしれません。「物体には固体、液体、そして気体がある。しかし、熱とはこれら3つの状態のいずれかが存在する状態を指すだけだ。気体の最小の粒子が運動しているとき、その運動は熱として知覚されます。気体がないところでは、熱もあり得ない。」と。
秘教科学者にとっては、問題は異なります。その人にとって熱とは、気体、液体、固体と同じように語られるものであり、単に気体よりも微細な物質なのです。そして、液体が凝縮した蒸気、あるいは固体が凝縮化した液体であるのと同じ意味で、気体とは凝縮した熱に他なりません。秘教科学者は、気体や蒸気の物体について語るのと同じように、熱体についても語ります。この分野で秘教科学者に倣いたいのであれば、精神的な知覚が存在することを認めるだけで十分です。
物理的感覚に提示される世界において、熱は完全に固体、液体、あるいは気体の状態として現れますが、この状態は単に熱の外面、あるいはその本質に過ぎません。物理学者は熱のこの効果についてのみ語り、その内的性質については語りません。一度、外部の物体から受ける熱の影響をすべて完全に無視し、「暖かい」「寒い」と言うときの内的体験を思い出してみてください。この内的体験だけで、上述のような発展期における土星がどのようなものであったかが分かります。
人間がその空間を完全に歩き回ることができたとしても、圧力をかける気体も、光の印象を受ける固体や液体も存在しなかったでしょう。しかし、空間のあらゆる地点において、外部からのいかなる影響も受けることなく、人間は内部で「ここはこれくらいの暖かさだ」と感じることが出来たはずです。
このような性質の天体には、現代の動物、植物、鉱物といった生命体にとって適切な条件ではありません。(したがって、上で述べたようなことは実際には決して起こりえないということをあえて言う必要もないでしょう。現代の人間は、当時の土星に観察者として立ち向かうことは出来ません。この説明はあくまで分かりやすくするためのものです。)
土星時代を観察する際に超感覚的な知覚を通して意識される存在は、地球上で感覚的に知覚出来る現在の存在とは全く異なる発達段階にありました。この認識の前にまず、現在の人間のような物理的な身体を持たない存在が現れます。ここで「物理的な身体」といっても、現在の人間の物理的な身体を思い浮かべてはいけません。物理的な身体と鉱物的な身体を区別する必要があります。物理的な身体とは、現在鉱物界で観察される物理法則に支配されているものです。現在の人間の物理的な身体は、ただ物理法則に支配されているだけではなく、鉱物質で満たされています。土星では、まだこのような物理・鉱物的な身体は存在しません。そこでは物理法則に支配される物理的な身体しか存在せず、これらの物理法則は熱作用としてしか現れません。ですので物理的な身体とは、細かく薄い、エーテルのような熱の身体なのです。
そして土星全体は、そのような熱体で構成されています。これらの熱体は、現在の物質鉱物である人体の最初の構造なのです。この身体は、後に形成された気体、液体、固体の物質の統合によって、以前のものから発達しました。超感覚的意識が土星状態を経験する時に現れる存在、いわば人間以外の土星人と呼ばれる存在の中には、肉体を全く必要としない者たちがいます。彼らの存在の最低位の構成要素はエーテル体でした。彼らはまた、人間の構成要素を超えた構成要素も持っていました。人間は最高の構成要素として霊的人間を持ちます。これらの存在にはさらに高次の構成要素があります。そして、彼らのエーテル体と霊的人間の間には、本書で述べられているような、人間にもある構成要素のすべてがあります。それは、アストラル体、自我、霊的自我、生命霊です。
私たちの地球が空気の層に囲まれているように、土星もそうでした。ただし、土星の場合、この「空気の層」は精神的なものでした。実際には、上で述べたものや他の存在から成り立っていました。土星の熱体とこれらの存在の間には、持続的な相互作用がありました。これらの存在は自分の本質の部分を土星の物理的な熱体に沈めました。そして、これらの熱体自体には生命はありませんでしたが、周囲の住人の生命がそこに現れていました。
これらを鏡に例えることが出来ますが、そこに映るのは生物の姿ではなく、生命の状態でした。したがって、土星自体では生きたものは発見できませんでした。しかし、土星は周囲の宇宙空間に生命を反射して、生き生きとした影響を与えていました。
土星全体はまるで天の生命の鏡の様に見えました。土星が反射する生命の非常に高い存在は、「叡智の精霊」と呼ばれています。(キリスト教の精神科学では、「キュリオテテス(支配者)」と呼ばれています。)彼らの土星における活動は、上述の土星の発達の中期から始まったわけではありません。ある意味では、その頃にはすでに完了していたと言えるでしょう。彼らが土星の熱体における自らの生命の反射に気付くためには、まずこれらの熱体がその反映を生み出すようにしなくてはなりませんでした。したがって、彼らの活動は土星の発達開始直後から始まったのです。これが起こった時、土星の物質性は依然として無秩序な物質であり、何も映し出すことが出来ませんでした。そして、この無秩序な物質を霊的に観察することによって、土星の発達の始まりに身を置くことになります。そこに観察できるものはまだ、後に現れる温かさのような性質を備えていません。もしそれを特徴づけたいのであれば、人間の意志に匹敵する性質についてしか語れません。それは徹底して意志そのものです。このように、そこに存在するものは精神的な状態なのです。
この「意志」の起源を辿れば、崇高な存在たちの発散から生じたことが分かります。彼らは想像を絶する段階を経て、自らの発達を極めて高度なものへと高め、土星の進化が始まった際に、自らの存在から「意志」を発散させることが出来たのです。この発散がしばらく続いた後、前述の「叡智の精霊」の活動が意志と結びつくようになりました。これにより、以前は全く特徴のなかった意志は、徐々に天界に生命を放射する性質を獲得していきました。
土星の進化の始まりにおいて、意志を放射することに至福を見出した存在は、「意志の精霊」と呼ぶことが出来ます。(キリスト教の秘教科学では、「玉座(トローネ)」と呼ばれています。)
意志と生命の相互作用の後、土星の発達が一定の段階に達すると、土星の軌道上に存在する他の存在の影響が始まります。これらは「運動の精霊」(キリスト教では「力(デュナミス)」)と呼ばれています。これらは肉体もエーテル体も持ちません。その最低位の存在形態はアストラル体です。土星の天体が生命を反映する能力を獲得すると、この反映された生命は「運動の精霊」のアストラル体に宿る性質を浸透させることが出来ます。その結果、感覚、感情、そして類似の精神的力が土星から天空へと放たれるようになりました。
土星は全体として、共感と反感を表す生命体のように現れます。しかし、これらの精神的表現は決して土星自身のものではなく、「運動の精霊」の精神的影響の反映に過ぎません。
これが一定期間続くと、他の存在の活動が始まります。これは「形態の精霊」とも呼べるかもしれません。その最低位の存在形態もまたアストラル体です。しかしこのアストラル体は、「運動の精霊」とは異なる発達段階にあります。彼らが反射された生命に対して一般的な感覚表現しか伝えないのに対し、「形態の精霊」(キリスト教では「エクスシアイ(権力者)」)のアストラル体は、感覚表現をまるで個々の存在が世界中に投げ出しているかのように作用させます。言い換えれば、「運動の精霊」は土星全体をまるで生きた存在のように見せます。「形態の精霊」はその生命を個々の生き物に分けるので、現在ではそれがまるで多くの魂の存在が集まったもののように見えます。例えとして、ひとつひとつの小さな実からできているマルベリーやブラックベリーを想像してください。
こうして、霊的に認識できる者にとって、土星はこの発展段階では個々の土星存在から構成されており、それらは独自の生命や魂を持っているわけではなく、住人の生命と魂を反射しているに過ぎません。
そして、この土星の状態に介入する存在がいます。彼らもまた最下層にアストラル体を持っていますが、その発展段階を進めることで、あたかも現在の人間の「自我」のように作用するのです。これらの存在を通して、土星の周囲の「自我」が土星を見下ろしています。そしてその性質を土星の個々の生物に伝達しています。
こうして、土星から宇宙空間へと何かが送り出されますが、それは現世における人間の個性の働きのように見えます。これをもたらす存在は「人格の精霊」(キリスト教では「アルカイ(原初の起点)」)と呼ばれています。彼らは土星の粒子に人格の性質の印象を与えます。しかし、実際に人格が存在するのは土星自体ではなく、その映像のようなもの、人格の殻だけです。彼らの本当の人格は、土星の周囲にいる「人格の精霊」にあります。まさにこのようにして「人格の精霊」がその本質を土星の粒子に反射させることで、先に「熱」と呼ばれたような微細な物質性を土星の粒子に与えるのです。
土星全体には内面性はありません。しかし「人格の精霊」は、土星から流れてくる熱として自分たちの内面性の像を認識します。これらすべてが起こると、「人格の精霊」は人間が現在立っている段階に到達します。彼らはそこで人間の時代を経験しているのです。この事実を客観的に見ると、人間は単に現在の人類が持つ形態だけでなく、人間であり得ると想像しなくてはなりません。「人格の精霊」は土星時代の人間です。彼らの最下層は肉体ではなく、自我を伴うアストラル体です。そのため、現代人のように、このアストラル体の経験を肉体とエーテル体で表現することは出来ません。しかし、彼らは「自我」を持つだけでなく、それを自覚しています。なぜなら、土星の熱が彼らの意識にこの「自我」を反射するからです。彼らは単に地球とは異なる環境にいる「人間」なのです。
今回はここまでです。
興味がありましたら、魂の夜明け(別館)の方もよろしくお願いします。